三好野の歴史

天明元年(1781)
三好野の前身の米問屋「藤屋」が岡山の西大寺というところで創業しました。
天保12年(1841)
松平家の御用商人となり、津山藩の蔵元として苗字帯刀を許されました。松平家から拝領した苗字は伊原でした。
明治 3年(1870)
津山藩が廃藩となり、そのあおりで、米問屋の廃業を余儀無くされました。10代目の主人八兵衛(1833-1870)の弟雄次郎(1835-1923)が店主となりました。その後帳合浜の米穀取引所で米の仲買を始めました。
明治 7年(1874)
岡山の天瀬(京橋付近)で高級旅館「三好野」を始めました。
明治21年(1888)
津高郡野谷村で岡山で初めてのマスカットの栽培に成功した大森熊太郎・山内善男・森芳滋の3名が、最初に収穫したマスカット2貫目を「三好野」に持ち込みました。雄次郎はそれを一粒口に含むと、とたんに1円金貨2枚を差し出しました。想像を絶するあまりの高値に驚いた3人は野谷村まで小踊りして帰ったと伝えられています。その話が俄然有名になり、翌年マスカットの栽培を始める農家が急増しました。
明治22年(1889)
主人雄次郎にかわり料亭旅館「三好野」の女主人として活躍していた若林加之(1848-1929)が、山陽鉄道開設準備のため「三好野」に長期宿泊していた三井財閥の大番頭中上川彦次郎の「これからはステン所(駅)の時代だ。異国では、どこの町も鉄道のあるところは繁栄しておるぞ」との勧めで、現在の岡山駅前やや北寄りに「三好野花壇」を開業。それと同時に岡山駅用地取得に尽力しました。その当時一帯は見渡す限り蓮根畑でした。
明治24年(1891)
山陽鉄道敷設に協力したことにより、岡山駅開業と同時に駅構内の支度所の運営をまかされました。その当時、汽車旅行するというのは大変なことで、出発前に親しい人たちが集まって宴席をし、旅行客を盛大に見送るのが常でした。
4月に山陽鉄道が倉敷まで延長されたのを機に、駅弁の販売を始めました。その当時のお弁当といえば、にぎり飯3個に沢庵というのが普通でしたが、三好野のにぎり飯には奈良漬が添えてあり「流石に、高級料亭三好野じゃ」と評判をとりました。
明治34年(1901)
岡山駅プラットホームの北側に洋館2階建ての支度所を開業。
支度所は後に「三好野ビヤホール」と名前を変え岡山の西洋料理店の草分けのひとつとなりました。
明治35年(1902)
「支度所」で岡山で初めての生ビールのコップ売りを始めました。
その当時は、すぐにダメになる生ビールは夏には売れず、生ビールといえばもっぱら冬のものでした。

明治末頃岡山駅周辺

明治末頃岡山駅周辺正面2階建が三好野社屋

大正 8年(1919)
合資会社「三好野」を設立。
昭和12年(1937)
資本金30万円の株式会社に組織をかえて若林英治(1890-1965)・溝口洗吉が代表取締役となりました。
昭和33年(1958)
岡山駅前に弁当工場、レストラン・喫茶・宴会場・結婚式場を備えた「三好野会館」を建設しました。
この三好野会館は、最新の豪華な設備を誇っており、その当時はもの珍しかった自動ドアも取り付けられており、開店当時は、用もないのに何度も出入りする人たちが相次ぎました。
昭和34年(1959)
屋上にビヤガーデンをオープン。本格的なビヤガーデンとしては、西日本で第1号でした。
昭和38年(1963)
「祭りずし」を新発売。
岡山の伝統的な料理「ばらずし」を駅弁で発売しようということになりましたが、日持ちの関係からどうしても、寿司飯の中に干瓢などを混ぜることが出来ず、ご飯の中に具の混じっている「ばらずし」と差別化するため名称を変えようということになりました。
そこで若林英治の発案により「祭りずし」と命名されました。
昭和39年(1964)
若林雄造(1920-1991)が代表取締役社長となりました。
昭和40年(1965)
(株)三好野本店と取引先により「みよしの友の会」が結成されました。
昭和42年(1967)
豪雨による山陽本線の不通に際し、協力したかどで岡山鉄道管理局長より感謝状を頂きました。
昭和45年(1970)
岡山市青江に結婚式場・宴会場・レストラン・喫茶などもつ「ニューみよしの」を建設し、弁当折詰製造工場を移転しました。
昭和49年(1974)
倉敷市に「くらしきミヨシノ」を開設。
「栗おこわ」を新発売。
中国自動車道「勝央サービスエリア(下り線)」にサービスエリアの営業を始めました。
昭和50年(1975)
幕の内「後楽」を新発売。
昭和52年(1977)
「備前米弁当」を新発売。
昭和53年(1979)
中国自動車道「七塚原サービスエリア(下り線)」にサービスエリアの営業を始めました。
昭和55年(1980)
岡山ターミナルホテルにメルヘンテラス「星の王子さま」を開店。
岡山県勝田郡に三好野本店勝央工場を建設。
昭和56年(1981)
あおえミヨシノに「ニューヨーク・ニューヨークあおえ店」を開店。
あおえミヨシノに、レストラン「ピカデリーサーカス」を開店。
あおえミヨシノに、ステーキハウス「凱旋門」を開店。
昭和59年(1984)
えきまえミヨシノに、レストラン「クィーンズエルム」を開店。
昭和62年(1987)
えきまえミヨシノに、ステーキハウス「華」を開店。
昭和63年(1988)
瀬戸大橋の開通を記念して開催された「瀬戸大橋博’88岡山」にレストランと弁当ショップを出店。
平成 2年(1990)
広島市アルパークに和風レストラン「HAL」を開店。
岡山県総合グランド内にレストラン「キューティパィ・カフェ」を開店。
平成 3年(1991)
若林昭吾が代表取締役社長となりました。
平成 5年(1993)
岡山空港内に展望レストラン「ミヨシノ岡山空港店」を開店。
平成 7年(1995)
1月17日未明阪神淡路大震災発生。当日21時に神戸市役所民政局より「できるだけたくさんのお弁当を」との依頼があり、納入業者の協力も得て、朝7時までに祭り寿司と幕の内約9,000個を製造し、岡南飛行場より自衛隊のヘリコプター5機で納入しました。1月18日は自力でトラック輸送した物を含め、合計21,500食を神戸市に供給しました。その後も避難所や民間病院を中心に供給を続け、農林水産大臣より感謝状を贈られました。
あおえミヨシノビル内にC.V.S.弁当工場を新設。
米子自動車道「蒜山高原サービスエリア(上り線)」にサービスエリアの営業を始めました。
平成 9年(1997)
JR倉敷駅に駅弁の売店を開店。
「ハローキティのまつりずし」を新発売。
平成11年(1999)
「はろうきてぃ釜めし」を新発売。
平成13年(2001)
岡山市桑野に、お弁当工房・オフィスセンター完成。
平成14年(2002)
「美的・ヘルシー弁当」を新発売。
「おかやま和牛肉弁当」を新発売。
山陽新幹線の岡山―新大阪間が開業30周年を迎えたのを機に、駅弁「三重30品目幕の内」を販売する。
平成15年(2003)
「幻想庭園」を新発売。
「フルーツ王国デザート弁当」を新発売。
平成16年(2004)
農林水産大臣より感謝状を贈呈され表彰される。
「豚トコTON」を新発売。
平成17年(2005)
「おかやま地どり弁当」を新発売。
復刻駅弁30年前のレトロな雰囲気が人気の「味よしべんとう」を販売する。
平成18年(2006)
「後楽園のお弁当」を新発売。
平成19年(2007)
農林水産省の「優良フードサービス事業者等表彰」で国産食材安定調達部門の大臣賞を受賞。
平成28年(2016)
岡山駅前の再開発事業に伴い、三好野会館を閉館
令和 2年(2020)
岡山駅(さんすて岡山南館)に日々食べるお弁当をコンセプトにしたhibiki屋をオープン。